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狐山物語

狐山物語
(八尾高校百年誌より)

新校舎と狐山
平成新校舎と狐山 狐山は野外ホールとして八尾高の歴史に新しいページをひらくこととなった。

 八尾高校が創立されて100年。第二次大戦後の学制改革によって、旧制中学校が高等学校と変わり、明治より大正、昭和、平成と年号を重ねながら、今日まで3万1千余に及ぶ卒業生を輩出してきた。その一人一人は巣立ちの年度も違うように思い出も様々であろう。
 しかし、ここで、すべての卒業生に共通する思い出はと問うたなら、それは、ゆうかり樹と狐山であろう。ゆうかり樹は初代の坪井校長が植樹されて現在も通用門の横で元気に生き続けている。狐山はどうかというと、創立以前のことは正確な文献がなく、今も謎を残したままである。
 こうではないか。こういう話もある。というものの、いずれも口伝えの域を脱しない。校歌に歌われている長瀬川に関しては色々と文献もあり、あるいはその中に狐山の謎が隠されているかも知れない。

 八尾高校の敷地は、現在の長瀬川をはさんで 幅200~250mもある巨大な昔の大和川の本流を埋め立てて出来た新開地(安中新田)である。
 今から290年ほど前に旧大和川は、現在の国分・柏原付近から一直線に大阪湾に注ぐようにつけ替え工事が行われた。その時に一部を用水路とするために現在の長瀬川が残された。
 つけ替え工事の行われた理由は、すでに皆さんもご存知のことと思うが、何百年もの長い間に上流から流されてきた土砂が川底に堆積して 5~6mもの層を形成、その結果川底が高くなった。両岸の村々は川の氾濫を恐れて堤防を高く築くようになり、これが繰り返されて、両岸の水田より川底が高くなるという、いわゆる天井川となった。長雨が続くと、たちまち増水して堤防が決壊、川は氾濫した。田畑は浸水、家屋家財は流失、また人的被害は計り知れなかっ た。
 江戸時代初期の60年間に12回もの大洪水の記録が残っている。

さて、つけ替え工事が終ると、旧大和川は堤防を平らにならして田畑として利用された。わが安中新田をはじめ多くの新田が開発された。
 ところで、かつての堤防の位置は、東(右岸) は昔、八尾警察署があった通り、現在の大川写真館前の南北道路あたりがそうであり、西は狐山の横を通る旧八尾街道が左岸の堤防のラインであったと考えられる。
 つまりわが狐山は、この左岸堤防のあたりにあったことになる(注)。
 今このラインをよく観察すると旧大和川が天井川であったことがわかる。東と西のラインの中にある曾ての川底の土地は高い。
 東と西の旧堤防ラインから旧集落や付随する田畑に向って必ず下り坂となっており、昔からの集落は土地の低いことが解る。

(注)この文を書き終えたあとに、昭和6年の「八尾中学校校地実測図」が出て来た。それによると狐山には “龍華村字安中大字長堤”と記され、狐山の地が長堤つまり堤防のあとであることを証明している。

旧大和川
旧大和川「グラフ八尾」川物語より(地図は南北が逆になっている)

狐山の平面図
狐山の実測平面図。昭和6年8月調査、縮尺1/300)


筆者は昭和初期に大阪市内から長瀬村の金岡新田に移り住んだ。わが家から500mはなれた小高いところに、今思えば旧大和川の堤防の上に弥刀村友井の墓地があった。当時は大人の手で二抱えはあろうかと思われる大木が茂っており、大木の茂りぐあいから丘の格好まで狐山に良く似ていた。

おそらく堤防の上に存在した墓地など、何らの謂のある場所は、堤防を壊して地ならしをする時に残したのではなかろうか。
 (旧大和川の堤防上につくられた墓地は長瀬川筋の全域に見られる。郷土史研究誌「礎」によれば、長瀬川筋には堤防上に墓地が16、神社が7あると報告されている。)

わが狐山は、いわゆる「墓地」ではなかったと思われるが、次に紹介する証言は、狐山が、狐が住むといわれ、民間信仰の対象物であったこと、そのために、(まさに「狐山」であったが 故に)取り去られずに残されたのではないかということを示しているようである。

昭和7年頃
昭和7年ごろの狐山(「至誠」34号より)右上に鳥居が見える。

証言(1) 教練は5年生になってからあって、 狐山へ行ってけいこしました。狐山の姿は昔ながらだが、当時は稲荷さんの小さなほこらがあったね。杉山先生の指導で号令の演習をやった。土地はまだ学校のものではなくて、運動場との間は水田であった。
■中8回 田中吾一郎  70年誌座談会「明治期こぼれ話」より

証言(2) 私らの中学生のころ狐山の上には小さな「鳥居」があり、油揚げが供えてあった。
■旧職員・中31回 大木行徳

証言(3) 私達の幼少の頃は、狐山を中心にし て「かくれんぼ」「山すべり」或は「木登り」等 をしてよく遊んだものだ。東側の山裾には小さな洞穴があって、ここに古狐が住んでいるということで、恐る恐る覗いたものである。
■中38回 桐山啓三「若草会50周年記念誌」より

証言(4) ・・・頭の上まで覆い被さる位の熊笹で一面覆われた狐山に登る。そこにはお稲荷様のほこらがある。誰がお供えするのか、いつも新しい油揚げがお供えしてある。そこへ登るのは、お稲荷様に手を合わせるのが目的ではない。麓に広がる大きなグラウンドで、八尾中の野球部の選手の野球を見るのが楽しみであり、憧れであった。八尾中は野球が強かった。
■中38回 包丁博「若草会50周年記念誌」より


証言(5) 昭和50年代でも近所の方が白装束で お参りされているのを見ている本校職員もいる。
■旧職員・高12期 小田博茂 (八尾高校PTA広報紙狐陵第1号 )

以上の証言は(5)を除き、いずれも明治末期から昭和初期のころのものであるが、大和川の付け替え工事が完了して新田が出来、昔から何等かの言い伝えの謂れのあったところが残され、 いつの頃からか、村の人々はこの丘を狐山と呼ぶようになり、稲荷信仰の対象とするようになったのではなかろうか。

<狐山と八尾高校の100年>

八尾高校創立以来、狐山はこの100年の時代の変遷、母校に起きたさまざまな出来事を見守って来た。いつの間にか自分の名前が「万歳丘」 などと変えられ、射撃の標的にされたこと、又、自分がひそかに抹殺される(とりこわされる) ような危険があったこと、自分の胴体をえぐられ身を削られて満身創痍になったこと、など、 いろいろの災難にあったが、文句一つ言わずに耐えて来た。そして「狐山」の名は遂に消えることなく文字通り八尾高校のシンボル、八尾高生の心のふる里として100年間を生き続けた。

狐山の歴史は即ち八尾高校の歴史であり、卒業生、在校生、教職員と共に喜び、共に涙を流して風雪に耐えてきた100年であった。

以下狐山100年の歴史を各種資料、証言をもとに綴ってみよう。

まず年表風にまとめることとする。

  • 明33・5・10  皇太子御成婚記念として狐山を購入附属樹栽用地とする。
  • 明34・4・1   本校の西隣りに用地2000坪を買収し運動場を拡張することとする。
  • 明35.2     同上完成(西運動場)
  • 大3・4・9    創立記念日にあたり、天皇即位記念事業を決定したがその一つとして狐山に射撃場を設けることとする。
  • 大4・11・10  天皇即位祝賀式。記念として狐山を「万歳丘」と改称し、拡張して狭窄射撃場を設けることを決定。
  • 大4・11・17  天皇即位奉祝訓話のあと、生徒全員が万歳丘に登り、万歳を三唱してのち、旗行列をおこなう。(八尾町を巡回)
  • 大5・6・1    射撃場完成。万歳丘に記念碑を設置。
  • 大12・6・20  同窓会大阪支部会報第5号が「狐山が昔から不良分子の根拠地となり、今又創立29年来初めての此の不祥事 (5月12日に修学旅行の件で5年生が狐山に集まり、校長とかけ合ったこと)の寄場にせられたことは実に遺憾である。将来此の狐山を何とか処分せなければなるまいね」と書いた。
  • 昭和2年頃  西運動場と狐山の間の畑地が地ならしされて、野球部の練習や試合がおこなわれるようになり、“狐山グランド”と呼ばれた。
  • 昭和9年    この年、室戸台風によって狐山の樹木も大きな被害を被ったが、新校舎建設と併行して、運動場の新造成がすすめられ、野球場、 陸上競技場、その他の球技場が新設され、 狐山の土留工事、狭窄射撃場工事もおこなわれた。
  • 昭和15年~ 戦争がはげしくなるとともに、狐山もさまざまな犠牲を強いられるようになる(土砂 削減、トラックの出入、兵舎の土塀に、穴を掘って弾薬庫に)
  • 昭21・12    G.H.Qの指示にもとづき狐山の射撃場ならびに記念碑を撤去破壊する。そして荒廃した狐山の復旧作業が体育の 授業時間の一部を割くなど、体育教師と生徒の労力奉仕ですすめられた。
  • 昭34.9.7   狐山保存工事が竣工。
  • 昭53.4    創立80周年記念事業の一つとして狐山(周辺)の整備なる。
  • 平成7年   狐山を中庭として新校舎の落成。

次にこの年表にもとづいて、資料、証言によ って狐山の歴史を具体的にあとづけてみよう。

<狐山の購入...“無用の用” >

本校70年誌は狐山の購入について「この丘が明治33年初め、払い下げとなるといわれた時、 尾見五郎先生が折柄大林区長であった同窓の友 杉山氏に助言を依頼して、今上陛下未だ皇太子の御時の御結婚(5月)記念として、坪井校長と話合いの上購入しおかれたのを・・・・」と記述し ている。

(注)100年誌編集にあたり、払い下げの理由、購入金額など、又樹栽用地というが具体的にどのように利用したかなどを知りたくて資料を探したが、未だ見付かっていないので不明である。 なお、尾見五郎先生は札幌農学校卒業の農学士であった。

したがって、大正3年に狐山に射撃場をつくるとの決定がおこなわれるまでの間狐山は八尾中の校舎、運動場からはポツンと離れたところに孤立していたので八尾中(生)にとっては“無用の用”であったといえそうである。

<狐山の変貌>

狭窄射撃場
無用の用から有用となった狐山(狭窄射撃場)

 大正4年に「万歳丘」と改名された狐山は、大正5年射撃場の完成とともに“無用の用”的 存在から“有用”の存在となった。しかしそれ は、樹栽用地から国家主義的、軍事教育のシンボル、実践の場へと変貌を遂げたことを示すものであった。

「至誠」(御大礼記念号)には「大礼奉祝記念旅行」 として次の様に記されている。 「大正4年11月17日講堂訓話あり。終って一 同国旗を手にし先づ万歳丘に上り天皇陛下万歳 を奉祝し、それより八尾町を巡回して式内神社 栗栖神社に参拝し、活気横溢隊伍粛々別宮を経 て恩智村恩智神社に参拝し暫時休憩の後帰校せり」と。

 又同誌上には、同年の第18回体育大会の記録の結びに、「かくて会は終りぬ。名誉ある優勝旗 は3年の得る所となる。頃四時。太陽は万歳丘上に輝けり」と。

 さらに中22回の赤松彬は「ゆうかり」1号への 投稿記事「学びのふるさと」の中で「私達の中学時代万歳丘は西運動場の西南隅にこんもりとした茂みに守られた可愛いい丘陵であった。それまでは狐山と俗称していたのを時の奥平市内校長が皇室の御慶事を祝うため小碑を建てて万歳丘と命名された。」と書いている。

 しかし、狐山は「万歳丘」と改名されたとはいえ、現存する各種資料(「至誠」などを含む) あるいは、卒業生の証言などからは、この「万歳丘」 なる名称は、前記「至誠」(御大礼記念号)以外にはほとんど見当らないし、聞かれない。 狭窄射撃場の方は、その後の軍事教育強化(大正14年には陸軍現役将校が配属され“教練”が正科となる)の中で、いかんなくその勤めを果たしたのにくらべて、「万歳丘」の名称はついに生徒の間に定着することなく、昔から馴れ親しんだ「狐山」が、その後もずっと八尾中生のものとして生き続けた。

  それは、狐山が「万歳丘」と改名されて間もなく入学した中26回生の諸氏が、編集部の聞きとり調査に対して「誰も万歳丘なんていいませんでしたよ。やっぱり狐山でした」と証言していることからも明らかである。

 さらに「万歳丘」が、ついに「万歳丘」たり得なかったことを示すあかしは、丘上に設置さ れた「記念碑」について、それが存在した期間 (大正5年から昭和21年12月まで)に在学した卒業生のほとんど(というより全部といって良いだろう)が、(碑の存在を知っている者でも) その碑文について、何が書かれていたかを全く知らないということである。

(注)この記念碑の碑文は旧職員で中31回の大木行徳証言によると、国漢科の西山全太郎先生が撰文されたとのことであるが、当の大木元教諭をふくめて、旧職員、同窓生の中で碑文の内容を知るものは見当らない。

 しかし、この碑が、昭和21年12月に、別記するようにGHQの指令(「公葬等に関する件」)に従って、 射撃場とともに破壊されたこと。又碑の建立が御大礼を記念してのものであったことから考えて、GH Q指令の「軍国主義的、国家主義的思想の宣伝鼓吹」 に該当する内容のものであったことは間違いないで あろう。(注167頁に資料掲載) また生徒たちは、狐山を万歳丘と命名し、記念碑を建てた学校の期待に反する行動をして、 学校や同窓会をなやませ、なげかせた。

  「同窓会大阪支部会報」第5号(大正12年6 月20日付)の編集漫筆は次のように記している 狐山は大和川の遺物で古き歴史を有し、先年御大典記念碑を建てられ万歳丘と名付けられて居るが昔から不良分子の根拠地となり今又創立 29年来初めての此不祥事の寄場にせられたことは実に遺憾である。将来此の狐山を何とか処分せねばなるまいね・・・.阿兄哥と。

 (注) 5年生が狐山に集り、修学旅行の一件で交渉委員に選ばれて校長に迫った或生徒が、平素から品行不良の為に注意人物であったのを愈々思い切って諭示退学に処せられたのが問題となって、13日約半数欠席し、14日は日曜で、15日1日休んでしまったが、父兄諸氏の斡旋で円満に無条件で解決が付いた由。

 万歳丘が“昔から不良分子の根拠地となった” との漫筆の指摘に関わる証言がある。

 中22回生の赤松彬、中31回生の安田光憲、中 33回生の高丘哲夫三名の証言である。 この証言はいずれも「各期が綴る」の夫々の回に記載されているので、是非ご覧いただきたい。

 読んでいただければ、それらは、漫筆氏の言うような“不良分子”の根拠地にされたとか、 創立以来の不祥事の寄場にされたとかいうようなものではないことがおわかりいただけると思 う。狐山から言わしめれば、“将来何とか処分せねばなるまいね”といわれるのは、濡れ衣ということになりそうである。

 狐山は、学校や教師の、不当、不公平に対する抗議行動、あるいは、納得いかない授業をする教師への不満、要求行動の根拠地であった。

(注)この種のストライキは八尾中だけのものではなく北野高校100年史、岸和田50年史などにも登場する。

 さて、このように書いてくると、「狐山の変貌」 という見出しはどうやらあたらないということになりそうである。

 「狐山」はあくまで「狐山」であった。“小倉服に白ゲートルの中学生達がこの丘に立って色々の夢に胸をふくらませた”心のふる里であり、“上級学校の受験に失敗して、一人この丘に上って人知れず涙を流した”思い出の地であり、 “学年末の成績発表前にこの丘に上って祈るような気持ちでその結果を待った”おふくろの様な存在であった。

 又、夏の暑い日の教練授業で、ものわかりの良い教官が、樹影の涼しいところで息ぬきをさせてくれたオアシス的存在でもあった。何よりも体育系クラブの生徒たちにとって、狐山は、ウサギ飛びで上ったり下りたりして足腰をきたえるトレーニングの場、きつい練習中の憩いの場、そしてラグビー部員はこの狐山めがけてフォワードはスクラム、プッシュの練習、フッカーはボールをかき出す練習をくりかえした。練習後の休養とミーティングの場であり、又夕闇せまる中で思い切り怒鳴って胸のもやもやを解消する絶好の場でもあった。

 応援団は「八尾高校の勝利をォ、キツネ山大明神に祈り、...」とエールを送った。

まさに狐山は、八尾中生にとって“からだ” と“こころ”のふる里であるとともにオアシスでもあった。卒業記念アルバムを見ると狐山を記念写真撮影の舞台にしているクラスが圧倒的に多いのも当然であろう。

<狐山の受難>

 狐山が“不良分子の根拠地”との汚名をかぶせられ、“何とか処分せねばなるまいね”といわれるピンチに立たされたことは前に述べたが、 狐山が八尾中生の心のふる里、オアシスとしての役割を果たせなくなるのではないかと、危惧される状態におかれたことも何度かあった。

昭和9年頃
山の中央に黒く映っているのが記念碑(昭和9年ごろ(中36回卒業アルバムより)

 中36回生の松田清は、私らの時分、狐山は笹の繁みもなく“坊主山”と呼んでいたと証言しているが、卒業記念アルバムを見ると、成程、坊主山だなあと納得させられるものがある。「至誠」36号に昭和9年ごろの狐山のスケッチが描かれているが何ともさびしい狐山である。

 この狐山の変貌の原因は、昭和9年に関西地方を襲った室戸台風にあった。 スケッチにも卒業記念アルバムの写真にも、 台風によって上部をもぎとられたと思われる樹木が見える。

 しかし、狐山の文字通りの受難は、昭和18年以後にやってくる。狐山も亦戦争の犠牲者であった。

 戦時中トラックの出入のため身を削られ、弾薬庫のため穴を掘られ、兵舎の壁のため土を取られてまさに満身創痍の状態となったのである。 (「八尾高校90年誌」大木行徳元教諭中31回)

 なお、戦時中の狐山の状態について、「70年誌」 にも「90年誌」にも記述がなく、証言者も極く少数であるのだが、その実態を明らかにしたい話題がある。それは八尾高校PTA会報第1号の本校元社会科小田博茂教諭の次の一文である。

 発掘といえば、ここに一つ、語り継がれていないのであるが(「七十年誌」にもなし)、ぜひともその実態を明らかにしたい「話題」がある。 それは、「狐山」に高射砲(二十センチ砲)が設置されており、担当部隊も駐屯していたということで、その砲の残骸が埋められているということである。

 「狐山」に高射砲!さらにN館(北校舎)屋上にも十センチ砲があって、両方とも昭和21年に解体され、狐山に埋められたということであ る。N館の砲はガス切断で完全にバラバラにし、狐山の砲身も細分して狐山のふもとを深く掘って埋めたということであるが、狐山の砲台は、 丈夫すぎて細分できず、二分し、そのすぐ下を掘下げて落とし込んだということである。埋め 込んで土をかぶせたが、その跡が分からないよ うにするため、さらに土を盛って山の形を整えたので、山の形は一回り大きくなったのではないかということである。

 この高射砲の話は、去る昭和59年に同窓の真野武史氏(高12期)とともに、当時これの解体にあたられた乾工務所の山本氏から伺った話を主 としたものである。

(注)この文の冒頭にある「発掘」というのは、これも狐山に埋められたという万歳丘記念碑の発掘のことであるがこれはあとで述べることとする。

昭和9年ごろのスケッチ
昭和9年ごろの狐山のスケッチ「至誠」36号より

<狐山の復活>

 戦争の犠牲者であった「狐山」は戦後不死鳥の如くによみがえった。 まず、第一に「万歳丘」という国家主義軍国主義の亡霊と名実ともに訣別したことである。

昭和29年ごろ
昭和29年頃の狐山(高6期卒業アルバムより)記念碑はす でに撤去されている。

 丘山の「記念碑」が狭窄射撃場とともにGHQの指令(注)によって撤去され破壊された。

(注)昭和21年11月19日府教育民生部長名で「公葬等に関 する件」なる其の筋よりの通牒が伝えられた。その第4項目には次のように書かれている。 忠霊塔、忠魂碑其の他戦没者の為の記念碑、銅像の建設並びに軍国主義者又は極端なる国家主義者の為にそれらを建設することは今後一切行はないこと。 現在建設中のものについては直ちに其の工事を中止すること、尚現存するものの取扱いは左に依られたい。

  • イ 学校及び其の構内に存在するものは之を撤去すること
  • ロ 公共の建造物及び其の構内又は公共用地に存在するもので明白に軍国主義的又は極端なる国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものは之を撤去すること

 かくして撤去破壊された記念碑はバラバラにして狐山の上辺部に埋められたという。

 そこで、狐山の謎を追いつづけている者にとっては、この碑を発掘することができれば、狐山の何たるか、その由来などを知ることができる筈で、この上ないよろこびとなるのだが、誰がその発掘の許可権を持っているのであろうか。

 いや、それよりも、碑の発掘などという知的好奇心をおこさずに、狐山は謎のままにおいておく方がよいのかもしれない。

 第二に狭窄射撃場も撤去、破壊された。 狐山は二つの重荷をおろして、スッキリと昔 の狐山にもどった。

 しかし、戦時中に狐山の受けた傷は大きかった(注)。満身創痍の狐山をたち直らせたもの、 それは、狐山の復活を願う教職員・生徒、そして同窓生の熱意であった。

(注)中22回の赤松彬は「私達の中学時代(大正5~10年)、万歳丘はこんもりとした茂みに守られた可愛い丘陵であった。.・・・先頃(昭和30年ごろ)この丘を 訪ねて見ると、夏樹の青葉に昔の名残をとどめているが、あの頃の笹の茂みは痩せ、丘は踏み荒され、 砂の饅頭もあわれに見る影もない。四十年の昔、小倉服に白ゲートルの中学生達がこの丘に立って、 色々の夢に胸をふくらませたかと思うと、懐旧の情切なるものがあった。」(「ゆうかり」第1号昭和32年 発刊)と書いている。 以下、戦後狐山復興の経過をたどってみよう。


▼ 戦後荒廃した狐山の復旧をどうするかについて職員、同窓生諸兄が鳩首相談したが、財源難などではかどらず、兵舎は乾工務店がとりこわしにあたってくれたが、土を狐山に戻すには 費用が及ばず、他に策なく、それからは体育科の先生方の協力で授業時間の一部を割いての生徒の労力奉仕と、乏しい器具(シャベル、バケツ)で土を狐山にはこぶ作業を続け、何とか旧の姿に近付け得たことについて改めて感謝の意を表わしたい。
■旧職員・中31回 大木行徳(八尾高90年誌)

▼我々同窓生一同の最も思い出深い場所としての狐山保存については、かねて有志諸氏の間で提唱されていたが、たまたま「ゆうかり」第 2号で田中校長の呼びかけもあり、急に具体化して、顧問並びに常任理事の諸氏が中心となって募金に着手、現在までに約16万円程の成果をおさめたので、植村高樹園の好意により施工に着手。9月7日一応の竣工を見るに至った。そ してこのあとご寄附者として個人36名と2グループ名をあげている。
(「ゆうかり」3号・昭和 34年9月25日付)

▼ 母校創立80周年記念事業の一つとしての同窓生諸氏のふるさと「狐山」周辺の整備作業は一番おくれて着手された。即ち運動場と南運動場の間を流れている久宝寺地区への用水路を暗渠にする件が地元の久宝寺の水利組合との話合いで、意外に時間がかかったためである。はじめの計画では300万円を計上して実行される予定の処、前記の水利組合との間に保証或いは迷惑料として90万円支払いを要求されたため、頭初の計画通り実施する事が不可能になった。併し部分的に残した場合、後になって矢張り施工しておけばよかったとの批判を受けるおそれが多分にあると判断して、施工者田渕造園(高4) のすすめもあって、不足分90万円を積立基金より割愛して実施に踏み切り、昨年11月の同窓会常任理事会の諒解のもと本年4月に竣工した次第である。即ち自然石で囲いをし、従来体育の授業をさいて土砂の流れをくい止める作業をお願いしていたが、これでその心配も解消された。

 併し今回は植樹迄手がとどかず、これは後日適当な名目で実現される必要があると思っている。 同窓諸氏、時間がゆるす場合是非立ち寄って整備された懐かしの狐山を一見して頂きたいものである。
(「ゆうかり」22号)

 かくして、狐山は名実ともに、八尾高校のシンボル、八尾高校同窓生のふる里として復旧、 整備された。


<狐山の未来>

 狐山の復旧・整備以来すでに20年近くの歳月が過ぎた。狐山はいま、八尾高校とともに100周年の輝かしい記念日を迎えようとしている。

 そして、狐山とともに60年にわたって八尾中、 高生を育んで来た現校舎にかわって新築される平成新校舎は、狐山を中庭とする、文字通りの「狐山校舎」となる。狐山は、これからも八尾高校と一体のものとして生き続け、八尾高校の歴史を見守り続けていく。

狐山に乾杯!

復興なった狐山
復興なった狐山

(付)狐山の木(樹学的分析)

 狐山についての回想記は多いが、狐山に植えられている樹木についての証言、おもい出話はほとんどない。狐山にはどんな樹木が植えられ、それはどのような変遷をたどったのか。

 だが、今や、その変遷をたどることは不可能であるので、現在狐山にどんな樹木があり、ど のように育っているかをしらべて見よう。 本校教諭、澄川冬彦(生物)の調査にもとづいて、まとめたのが797頁の図および表である。 この中で歴史的な年輪を刻むものは、モッコクの木であるが、北西側斜面のエノキ、ウバメ ガシ、南東側斜面のハリエンジュ、アキニレなどが非常に大きく成長し、とくにエノキが狐山樹木中の主力である。

狐山の樹木

(付)投稿 “私と狐山”

最後に、平成6年1月に100周年記念事業募金趣意書発送の際に同封させていただいた「百年誌」 原稿募集に応募された方々の“私と狐山” を紹介して「狐山物語」を終ることとする。

なお、この「狐山物語」は中42回 田中信男 (協力同42回松下貞行)の原稿をもとに、その後 判明した資料、事実等を補足して、編集部で加 筆編集したものである。

■狐山グランドの思い出

 旧大和川は柏原付近で玉串川・長瀬川・平野川等天井 川となって分流し一大三角州をつくっていて洪水が絶えなかったといわれていた。そこは水田より約2m高い畑地となっていて、水は井戸水を風車で汲み上げていた。 夏季ともなれば水田と畑地とで旧河川敷がはっきりしていた。

 そこに関西線が走り、官庁や各種工場など建設されていて、中央を流れる長瀬川の河川敷には、中河内郡役所 (現府中河内出張所)や母校が建設されていたので、敷地は砂地で井戸水はよく湧いた。それらは現在の長瀬川の東側にあり、西側には西運動場、その西側は松林、更に西方は水田であった。西運動場の南側が狐山運動場であった。当時は狐はいなかったが明治の頃はおったのであろうか。当時各町村の墓地にはまだ狐はおったのである。

 各運動部や学校行事は大抵東・西の運動場が使用されていて、狐山運動場は広大だったが主に教練の演習場に使用されていた。その南半分は畑の畝がそのまま残っていて、雑草が生い茂っていた。狐山はその南端にあって 小高い丘に大きな樹木が数本聳え立っていた。 演習中「伏せ」や「匍匐前進」する時は草叢の中でしなければならなかったが、春ともなれば昼食後はよくここに来て、たんぽぽやれんげの上に寝転んで、雲雀の声を聞 きながら雑談に耽るのが一つの楽しみでもあった。

■(中32回 西田芳雄)

■戦後虚脱感の中で・・・・“想い”と“議論”の場 狐山

 私が八尾中へ入学したのが昭和20(1945)年の3月、大阪の大空襲の一週間ほど前だった。 あの時から八尾中・八尾高と6年間、狐山と付き合って来たのである。

 狐山は旧大和川の堤防の一部であったが、度重なる氾濫のため元禄時代(1704年)に石川との合流点あたりから付け直され、今の大和川ができたらしい。

 狐山と誰がつけたのか知らないけれど、その名にふさわしく長年にわたって生徒達に神秘的な幻想を抱かせ、また、敗戦後の虚脱感の中での憩いの場として、あるときは結論のでない議論の場として提供してくれた。

放課後など5~6人の友達と木陰に座って、「恋愛と結婚とを同一視するか」「食わんがために生きているのか、生きんがために食っているのか」などとよく議論したものだ。 ときには、「狐山から運動場を見れば、『右向け~右!」 中にゃ左向くオハラハァ馬鹿もいる。シャンコリン、シャ ンコリン・・・」と、肩を組み、大きな声で歌ったものだ った。そんなことがついこの間のように思い出される。

■(中51回・高3期 秦 直邦)

高24期卒業アルバムより
高24期生の卒業アルバムより

■狐山とハンドボール

 高校2年の冬休みのこと。年内最後のクラブで、男女混合でハンドボールの試合をした。ゴールキーパーだった私は、男子に交替してもらって、フィールドで参加することになった。はじめは、お互いに遠慮していたが、だんだん、真剣になって、私もついいつものくせで、男子のシュートをとめようと、反射的にとびついた。あっ、 しまったと思った瞬間、狐山がはっきりと見えた。そし て、そのまま2人でグランドにたおれて、私は後頭部を 強くうって、意識を失ってしまった。2・3日して、ふだんの生活にもどったが、その間のことは何も覚えていない。ただ頭の中で、ぼんやりと狐山とハンドボールのコートが、うかんだり消えたりしていた。

 あれから20年、 狐山は、あの時と同じようにグランドの片隅からそっと みんなを見守ってくれていることだろう。 ありがとう狐山。

■ (高26期 合阪由美子)

■狐山と発声練習

 私は、狐山と聞くと反射的にクラブ活動のことを思い出す。 「将来は女優に!」などとは全然思わず、ただ漠然と演劇部に入部したのだが、その発声練習で何度か狐山に登 った。先輩から「狐山で練習しよう。」と言われた時は、 「へー、登っていい山だったのか・・・。」とまず思い、何となくワクワクするような気分になってきた。

 放課後の運動部の練習でいっぱいのグラウンドを場違いな制服姿で横切り、狐山のそばまで行くと、校舎の方から眺めていた狐山のイメージとずい分違い驚いた。実際登ってみると、 木々は生い茂り、下草もかなりの丈があり、本物の狐がいつ出てきてもおかしくない「山」だった。頂上まで登るとグラウンドを一望に見渡すことができ、「文化系クラブだって!」という気持ちがふつふつとわいてきたのを思い出す。

 何故狐山で練習したのか、(たぶん少々大声を張り上げても大丈夫だからと思うが)先輩から理由も聞かなかっ ったが、後にまわりの同級生などに聞くと、実際に狐山に登ったことのある者は案外少なく、ちょっぴり優越感に 浸っている次第である。

■(高31期 辻岡昌子)

以上八尾高校百年誌より 文責 奥田尚五(中45回)