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ゆうかり伝説

樹齢100年 八尾高100年史の生き証人
(八尾高校百年誌より)



1本だけ残った現在のユーカリ(写真は旧校舎時代)

 ユーカリは狐山とともにまさに八尾高校のシンボルである。
八尾高校同窓会会報の表題「ゆうかり」は本校中3回生の、歌人・今中楓溪が名付け親と言われるが、(因みにP.T.A会報の 表題は「狐陵」である)当然のことと言えばそれまでであるが、流石だと思うのは筆者だけではあるまい。
 中36回久野行雄は、このユーカリについて坪井仙次郎初代校長との関わりをふくめ、長い年月をかけて綿密に調査しその結果を「ゆうかり」 26号、旧中38回(若草会)の「卒業50周年記念誌」 に発表している。
そして今回「八尾高校百年誌」作製にあたり編集部の依頼に応じて原稿をいただいた。
これら久野の記事、原稿を元に編集部でまとめたものがこの「ゆうかりの記」である。

(1)ユーカリ樹とは一その特性一

 コアラで有名になり、今では子供にもなじみ深いユーカリであるが、ユーカリには600以上の品種があるといわれ、原産地はいわずと知れたオーストラリアである。
しかし日本の気候、風土に適するものはその2割位である。
平凡社刊 の「世界大百科事典」によると、ユーカリが日 本に輸入されたのは明治10年ごろで、津田仙が植えたものが東京付近に広がったという。
 現在東京小石川植物園正門を左に少し行ったところにリボンユーカリの巨木(幹廻り2.5m) があり、日本最古だと言われている。ユーカリが最初に日本に輸入されたのが明治10年ごろであるとすれば、本校にユーカリが植えられたのは明治30年ごろと推定され(注)、わずか20年の開きしかないこととなる。
本校のユーカリ樹は樹齢100年、その存在価値は誠に大である。
それとともにこれをいち早く植樹した坪井校長の見識をあらためて認識させられるのであるが、坪井校長とユーカリの関わりについては後述するとして、本校に植樹されたユーカリ樹“グロブラスユーカリ”はどんな特性をもっているのであろうか。

■グロブラスユーカリ

 通用門の近くに、一本だけ残されているユーカリは、 グロブラスユーカリ・ふともも科 Eucalyptus Globulus LABILLA. Mytaceacである。
紙面の都合上、このグロブラス中心に書きます。原産地の オーストラリアでは、高さが、50メートル近くまで成長する常緑樹である。
 明治初年より一番多く植えられた品種で、「ユーカリの木」と云われている。
樹皮から分泌する樹脂が「ガム」 に似ているので、オーストラリアでは、ユーカリ樹を gum tree と呼んでいる。  幼い茎は、四角形で、卵形の光沢ある葉には、白い粉が付着し対生である。
 成長に従って、対生から互生へと変化して、鎌形の成葉となる。成木の先端から生ずる葉は、柳の芽吹きに似ているが、最初から互生で伸びる。一本の木に四、五種類の葉の形状の違いを発見する。
 花には、花びらがない。
おしべ・めしべを包んでいたキャップが地上に落下するので、開花の時(11月~3月) が判る。
 学名の Eucalyptus は、ギリシャ語で「よく匿された」ことを意味し、未熟な花芽が充分に発達するまで、キャ ップによって内蔵されている状態を表わしている。
 花には、甘い蜜があるので、開花期間が長く、高い安全な場所に咲いているので、小鳥がユーカリの小枝の花を求めに来る。日本では、蜜蜂は冬眠中のため蜜がとれないが、オーストラリアでは絶好の養蜂源の樹木である。

<幹>

 夏期に成長して脱皮する。上の方から下に向って垂れ下がりながら離脱する。材は製紙チップとして、多量に輸入されている。
 幹は非常に硬い。
 樹冠が密に発達する性質がある。日蔭樹用として植樹されている堺市立五箇荘小学校のグロブラスユーカリは、 幹も特にすばらしい。清風南海高校(高石市)では、防風・防音効果を目的として植栽されている。

<成長が早い>

 30~50センチの苗を植えて、4~5年すると、幹廻り 60センチ・高さが10メートル以上に育つ。直径10センチのユーカリの、地上30センチの個所を切っても、1ヶ月すると無数の芽が出る。萌芽力が旺盛な性質がある。

<2倍の酸素を出す>

 葉の両面に気孔があるので、光合成作用により、他の樹木より2倍の酸素を出すと云われている。

<香木である>

 そよ風で、葉と葉が接触し、ほんのりとした香がただよってくる。昭和5年から在学中、この独得の香がする 運動場で過した故か、私はこの香に愛着がある。
 ユーカリの葉・小枝を蒸溜して、エネルギー源として活用する研究が、北海道大学・三重大学等で行われていることが報道されている。
 600種のユーカリ樹のうちで、揮発成分が高い品種のラジアータ (Eu Radiata) でも、3.5%であるので、コス ト高のため、ユーカリ樹の品種改良研究が進められている。 私達の生活に一番密着しているのは、メンソレータムである。ユーカリ油が1.3%含まれて、薬用になっている。 蚊は、ユーカリの木には近寄らない。小枝を持っていると、蚊にさされない。

<他の品種>

 耐寒性が劣るが、赤い花の咲く、フィシフォリア (E. ficiforia)、壷状の大きな実をつけるカロフィラ (E. Calophyla)、生花に使用される銀丸葉ユーカリ (E. Cinerea)、茎が葉をつきぬいているツキヌキユーカリ (E. perriniana)などがある。

<植栽>

 成長してからの移植が困難であるから、最初に植付け場所の選定を慎重にし、地ごしらえを充分にすることが重要である。中36回 久野行雄  (中38回 卒業50周年記念誌「ゆうかりについて」より)

(注) ユーカリは主として西運動場の西端に沿って植えられていたというが、本校が西運動場を購入したのは明治34年であった。
坪井校長は、この西運動場の風除け、日除けの為に成長の早いユーカリを運動場の西側に植えたのであろう。

(2)坪井仙次郎初代校長とユーカリの植樹

 「私が昭和5年入学した頃には、朝礼、服装検査が行なわれていた東運動場を、西の方へ長瀬川を渡った処に西運動場(現校舎の位置)があった。その西運動場の周辺に一抱えもあるユーカリの木が約30本(注)空高く聳えて、東運動場の方にも独特な香りを運んでいた。新校舎建築のため現在ある一本だけが残された。」(「ゆうかり」26号、久野行雄「ユーカリの記」)
(注)西運動場の、とくに西側に沢山のユーカリの樹が 亭々と空高く聳えていたとの証言は他からも寄せられているが、そんなに多くはなかったという反論もある。(中31回大木行徳)

明治時代の西運動場   昭和7年卒業アルバムより
(明治30年末から40年代の西運動場        昭和7年の卒業記念アルバムより)

 編集部では、写真によって事実を確認しようと本校に現存する古い写真帳、アルバムなど(西運動場の写っているもの)を可能な限り探し出し、調査したが、西運動場の西側にユーカリ樹とおぼしき(写真が古く、不鮮明である)樹木が写っているものも数葉発見された。しかし、ユーカリ樹にまじって、ポプラやアカシヤと思われる木も写っている。(これ らの写真は明治30年末から明治40年代の写真でいずれの木も“亭々と聳える”といった状態ではない)。 従って坪井校長は、市岡中学や岸和田中学でと同じように(後出)、ユーカリの他にポプラやアカシヤなども植樹したものと思われる。 では久野や同期生の在学した時代(昭和5~10年) はどうであったか。残念なことに、この時代の西運動場の西側の写真は皆無に近く(ほとんどが現存するユーカリの写っている東側のもの)、ただ中33回生(昭和7年卒)の「卒業記念アルバム帳」の巻末に、 西運動場での教練査閲と思われる写真が一葉掲載されているが、これが西運動場であるとすれば“巨木が亭々と聳えていた”ことは確かであるが、残念ながらそれらがすべて「ユーカリ」樹ではなかったこととなる。 しかし、“黎明期の中学そしてその生徒たちの成長を、ユーカリの大樹に託した明治の校長の壮大な意気込み”(後出)は、この事実によっても決して消えることは勿論、薄められることはないであろう。

 かつて、西運動場の周辺に亭々として聳え、 体操の時間に、重田先生や堀先生がこのユーカリ樹の下の涼しい場所でいろいろ話しをされたり、また運動部の選手たちの絶好の休息場所となっていたユーカリは、誰がいつごろ植えたのか。それを証明する記録は本校には残されていない。ただ、坪井校長が在任中に「草花園」を設けたとの記録(本府往復文書綴)があること。 坪井校長が、その後の転任先(明治34年市岡中学、明治38年岸和田中学へ)の中学校でユーカリを植樹していること(注1・2)。又久野の調査によると坪井校長が当時輸入されて間のないユーカリのあった東京、小石川植物園をしばしば訪れ、行くたび毎にすくすく生長しているこの木の下で英語の翻訳をしたということで、これらを総合すると、ユーカリを本校に植樹したのは坪井校長であると結論しても間違いはないと思われる。そして、その時期は、「明治30年4月25日東運動場の北側に、大信寺校舎が新築されると同時に、西運動場の造成に取組み、まもなくそれが完成し、明治33年2月18日に、この造成間もない広い西運動場で第1回大阪中学校連合運動会(参加校北野、堺、八尾、茨木、天王寺、岸和田の6校)が開催されている」ことなどから、明治30年頃であろうと久野は推定する。

昭和33年ごろ
  昭和33年頃のユーカリ(旧新興橋も見える)

 (注1)市岡中学同窓会誌「澪標」によると、「八尾中学において家族的雰囲気のうちに生徒を育てあげ、第1回の卒業生を送り出した翌年(明治34年)坪井校長は初代校長として新設される府立第7中学校(市岡中学)に転任。築港に通ずる途中の当時の市岡は、安治川流域の“市岡西瓜”が有名な地区で、多湿な土地での校舎建設、入学者募集など日夜苦労が多かった。先生は、学術は勿論であるが、人格の養成とスポーツ、特に撃剣、柔術、陸上競 技等に意を注いだ。八尾中学で植えたユーカリの成長に自信を深め、運動場にポプラ、ユーカリ樹を植樹した。ところが、このポプラ、ユーカリは、 戦後相つぐ校舎の増設にともなって、姿を消し現在は見当らない。そして今校長室にはユーカリの切り株が大切に保存されている」とある。

 (注2)坪井校長は市岡中学で第1回卒業生を送り出す前年(明治38年)に突如として岸和田中学に転任となった。坪井校長の胸中、同校先生、特に5年生 の心境は想像に余りがある。(市岡中、「澪標」) 坪井校長のこの突如の異動、そして岸和田中学の校長であった中原貞七が坪井先生が初代校長であった八尾中学に転出するという、異例の人事については別のところで記述することとするが、坪井校長は、岸和田中学でも、ポプラ並木と15~16 本の「グロブラスユーカリ」を植樹した。八尾中学と同じく、岸和田中学でも、このユーカリ樹は大きく成長して運動部の絶好の休息場所となり、 大正末期に岸中グランドから毛利一郎、中沢米太郎の両オリンピック選手が出ている。しかし、残念ながら岸中のユーカリ樹は昭和25年のジェーン台風によって倒れ、現在陸上競技部OBが二世を育てている。「黎明期の中学、そしてその生徒たちの成長を、ユーカリの大樹に託した明治の校長の壮大な意気込みが伝わってくる話である」


(3)ユーカリ樹の保存

 かつて大阪府立のあちこちの旧制中学の校庭にあったユーカリが、現在ではほとんど姿を消してしまった。
 そのような中で、樹齢100年、高さ10メートル余の本校ユーカリ樹はまさに歴史的な、貴重な存在である。このユーカリを今後とも八尾高校のシンボルとして残していくことは八尾高校にとっても、八尾高校同窓会にとっても大切な事業(義務)である。 創立100周年記念事業の一つに、このユーカリ 樹の保存が、あげられているのは誠によろこばしいことである。
(注)「百年誌」の最終校正にとりかかったころ「ゆうかり」に2世が誕生した。

平成3年6月5日読売新聞夕刊
ユーカリ伝説を報じる読売新聞 (平成3年6月5日夕刊)

今中楓渓色紙
中3回今中楓渓の和歌(色紙)-若き日の夢かたりつつ手を執らむユーカリの樹色蒼天に映ゆ

(4)ユーカリ余談

 ユーカリ樹をシンボルとする学校は、勿論八尾高校だけではない。全国でユーカリを校章に、校歌にとり入れている学校、由緒あるユーカリ樹を持つ学校が多いし、ユーカリを「市民の木」とする市もある。

以下、久野の調査によると、
●すぐやる課で全国的に有名になった松戸市は ユーカリを「市民の木」に選定。
●兵庫高校では昭和23年にユーカリの若葉をデ ザインした校章を、校内の図案募集により採用している。
また兵庫高校の校歌には「武陽ケ丘のあさみ どり、白き雲わくユーカリに、生命の春を証 して......」と歌われている。
●鹿児島経済大学校歌「庭にそびゆるユーカリ樹、ゆかりもうれし海の外......」
●堺市立五箇荘小学校校歌「かおるユーカリ風清くこぞるよわれら さわやかに......」
●由緒あるユーカリを持つ学校
国泰寺高校(旧広島一中)
大阪市立大学(旧大阪商科大学)

昭和40年代
昭和40年代のユーカリ

以上八尾高校百年誌より 文責 奥田尚五(中45回)