輝ける先輩達 第9回

歌人・昭和歌壇の重鎮 野崎小唄を作詞

今中楓渓氏(中3回)


歌碑 野崎小唄(野崎観音境内)

 昭和10年代に、名歌手東海林太郎の歌声にのせて大ヒットし、今も歌い続けられている 「野崎小唄」 の作詞者は、八尾中学3回生の今中楓渓氏(本名 岩崎保次郎)である。
 落語でも有名な ″野崎詣は 屋形舟で参いろ どこを向いても菜の花盛り 意気な日傘にゃ 蝶々もとまる 呼んで見ようか土堤の人“の歌碑が、先生の一周忌に当たる昭和39年8月17日、地元有志の手によって、ゆかりの地「野崎覿音」 の境内に建てられ多くの参拝者に親しまれている。しかし氏は作詞者というより歌人であり、女性和歌誌「若葉」を主宰し、歌集「あかね」「百日」「青潮」等の著作があり、「覇玉樹」同人として、川田順氏と並ぶ関西歌壇の重鎮として活躍した。
 大東市の野崎観音で5月に行われる、自然界の全てのものに感謝のお経を捧げる「野崎まいり」 の様子を歌ったもので、現在も大東市の野崎参道商店街振興組合が11月3日に「全国野崎小唄選手権大会」を開くなど、地域活性の役割を果たしている。
 ここで氏の八尾中学時代および卒業後の歌人への道のりについて触れてみたい。
 氏は会報「ゆうかり」 への投稿の中で、”私は八尾中学在学中から、和歌はじめ文学などというものに、うつつをぬかし、他の学業をおろそかにしたために成績が落ち「特待生」 の特権を取り消された”と述べている。八尾中卒業後は広島高師へ進学、卒業。久しく女子教育に携わったが、昭和12年1月26日、宮中歌御会初に陪聴の栄に浴したことをきっかけに、大阪府立寝屋川高等女学校の教頭職を辞し「和歌報国運動」に専念することとなる。
 戦後は樟葉の閑静な自宅で、悠々和歌一筋の道を歩み、昭和38年8月17日、80歳の天寿を全うした。
 なお、氏は生前母校八尾高校の発展を常に祈念し、協力を惜しまなかった。
 野球部の甲子園出場、女子ソフトボール部の全国大会、国体での活躍優勝にあたって、激励・祝賀の和歌を色紙(左に)・条幅(資料館掲額)などにしたためて贈呈され、また70周年記念としての 「記念会館」 建設にあたっては、いち早く会館を飾る偏額(ゆうかりホールに掲額)が贈られている。

氏の八尾中在学時代に、校友会誌「会誌」第2号に投稿した和歌4首
〈雁)
うち靡く尾花が袖に月おちて
暁さむくかりなきわたる
(紅葉)
小倉山 つたの細道わけゆけど
紅葉の奥も紅葉なりけり
(秋雨)
氷水めせと招きし人うせて
あれし野茶屋は秋雨ぞふる
(海邊寺)
海人の子がしらぶる笛の音にさへ
むかし忍ばるゝ 須磨寺の秋

昭和27年夏、硬式野球部の甲子園準優勝をたたえ贈られた色紙
選手よくも戦いくれぬ 八尾の名は 天下に鳴りて青空にひびく

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