輝ける先輩達 第6回

西成の赤ひげ (地域医療に捧げた生涯)
本田 良寛氏 (中44回)

”西成の赤髭″ 本田良寛は、本校中44回の卒業生である。しかし、本田自ら言うように人生で3回の落第を経験し、その第2回目が八尾中1年の時であった。(群家での臨海訓練中に急性虫垂炎から化膿性の腹膜炎を併発、その年体調悪く勉強できずに落第) 従って43回生として入学したが卒業時は44回生となる。
 本田は、中学時代は”始末書のレコードホルダー”であった。しかし、それはいわゆる硬派的行動によるものであった。ケンカの”校内マッチ””対校マッチ”をはじめ、武勇談は数知れない。
 しかし、この悪童も中学5年に進んだ時、担任の三刀先生に 「お前は頭が悪いのではない。勉強せんからあかんのや。今からでも遅うない。」 とハッパをかけられて発奮。徳島県立医専に合格して医師としての道を歩むこととなる。
 昭和38年に大阪府済生会今宮診療所長 (現大阪社会医療センター)となり”西成の赤髭”として俗称釜ケ崎(愛隣地区)の対労働者、地域の医療活動に献身する素地は、徳島医専時代および徳島医専廃校後に転入学した大阪市立医専(現大阪市大医学部)時代に培われたが、開業後、医師会での調査広報委員会委員としての仕事の中での社会医学への開眼。そして地元鴫野の通称”アハッチ部落”での医療活動(この時”アパッチ医者”という異名をマスコミがつける)の中で決定的なものとなった。
 しかし、父君が、やはり医師としての活動の他に俳人 (ホトトギスの同人) として、全国の癩病療養所(当時の呼称)の入所者に対する俳句指導=俳句救癩の悲願=に献身されたことが、本田の社会医療活動を支えるいま一つの原点であった。
 大阪社会医療センター理事及び病院長としての、医療、社会活動については、本田良寛著「にっぽん釜ケ崎診療所」に詳しいのでご覧いただきたい。(「ゆうかり文庫」に所収)


 又、本田の活動に対して、日本公衆衛生会長表彰ほか、14件の表彰状、感謝状がおくられている。
 しかし活動の無理がたたって、胃癌のため昭和60年3月、惜しまれつつ他界された。
 なお、氏は昭和41年11月に大阪文化賞、55年4月に吉川英治文化賞を受賞している。文化人でもあったのである。(以上八尾高校「百年誌」人物抄より転載)
(補)
 大阪社会医療センター時代の本田の活動について、平成15年11月25日、NPO「ゆうかりクラブ」主催の平成15年度「ゆうかり塾(14年度は「八尾高塾」)において「本田良寛の足跡をとおして地域医療を見つめる」と題して、大阪社会医療センター附属病院相談室長の安部光枝氏の講演がおこなわれた。映像をもとに本田の仕事(行政との交渉にも並々ならぬ努力をし手腕を発揮したことも)の全体像をいきいきと話していただいた。受講生一同”西成の赤髭”の名にそむかぬ氏の献身的な活動、地域医療のあり様を身をもって世に問うたその役割に大きな感銘を受けた。

「輝ける先輩達」目次へ

TOPへ戻る